"いい投資"探検日誌 from 新所沢

しあわせをふやす いいお金の使い方を考えています

いい会社の理念経営塾(5) 石坂産業 石坂典子氏講演 前編

8月20日(水)にNPO法人いい会社をふやしましょう主催のいい会社の理念経営塾2014年度前半の最終回、石坂産業の石坂典子社長のお話を聞いてきました。

昨年、三芳町にある石坂産業さんに見学に行ったのと、お江戸百年塾で2回石坂社長のお話は聞いていましたが、毎回新たな気づきがあります。 

家業が所沢ダイオキシン問題で周辺住民からの攻撃の的になっている最中に社長になり、さらにはこのままではこの地域にいられないと会社の大変革に取り組みました。出来ることをコツコツと積み上げてきた結果だと石坂社長はおっしゃいますが、見た目とは裏腹にかなりキツイことも言いながら変えてきたのだと思います。

いい会社のお話を聞いている中では珍しく、会社を変える際に半分近い社員が入れ替わっていて、社長になりたての時に厳しい試練だったと思いますが見事に乗り越え、外部の人に見てもらうことで社員の意識を変えることに成功しました。

かなり芯の強い社長ですが、あれだけの事をやり遂げるにはぶれない芯が必要なんだろうなとも思いました。

いい会社の理念経営塾 組織を動かす”ふつう”の人たち

日時:2014年8月20日(水)
場所:3×3 Labo
主催:NPO法人いい会社をふやしましょう
講師:石坂典子氏 石坂産業株式会社 代表取締役社長

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もともとそういう文化は無かったのですが石坂社長が根気を持って変えていきました。それを並々ならぬ決意だなと感じ、今回のシリーズ最後の回は石坂社長だと決めていました。

江口(NPO法人いい会社をふやしましょう 理事長):昨年、石坂産業さんに見学に行ったのですが、今でも忘れられないのはベルトコンベアを最終廃棄物が流れる現場で分別している作業者の姿です。ベルトコンベアを流れる最後の一つになるまで繰り返し繰り返し流し続ける姿に信念を感じました。

ここで処理するのは家の解体した後、更地にする際に出てくるものなので、鉄とアルミの塊が山積みになっている中から絡んだものを解いたり、コンクリを砕いたりすることで完全にリサイクルしています。

もともとそういう文化は無かったのですが石坂社長が根気を持って変えていきました。それを並々ならぬ決意だなと感じ、今回のシリーズ最後の回は石坂社長だと決めていました。

石坂:アメリカに留学した後、1年たってせっかくなのでいろいろ見て回ろうと遊学していました。そんな住所不定状態になっていたら父親が二回ほど様子を見に来たんです。何の為にお金を出しているんだと。

さすがにまずかったかなと思っていた時、NYにある居酒屋むらさきで秋刀魚を食べて醤油って美味しいなと日本に帰ることにしました。日本に帰ってからは幕張でやるようなイベントコンパニオンの仕事をしていましたが、父からするとイベントコンパニオンも飲み屋のお姉さんと一緒と思われて何をしているんだと怒られました。

NYにいる時、ネイルを自分で切らないというのを聞いてどうしているの?と聞いたらスーパーの脇にあるようなお店で千円くらいで出来ると聞いて、ネイルサロンを開こうと免許もとりました。当時日本では2万円くらいするような時代に千円でできるんだったらと思ったのです。開業資金を作ろうと父親の会社で勤めることになり、営業事務をしました。その時に初めて父親の会社が産業廃棄物の中間処理をする会社だと知りました。

 

これからリサイクルしないといけない時代が来るだろうと産業廃棄物をリサイクルするようになったのです。

石坂誇り高い無くてはならない素晴らしい仕事だと思ったのが25歳の時です。1999年、二人目の子どもが生まれそうな頃だったのですが、所沢ダイオキシン問題が起きました。所沢は関越道が開通したことにより東京からの交通の便が良くなり、急激に物流倉庫や産廃屋が増えました。所沢ダイオキシン問題をきっかけに公害調停になって付近に60本あった焼却炉がゼロになりました。それくらい全国的にも注目を浴びたエリアだったんです。

初めて周辺住民から私たち業界に目が向けられるようになり、そもそもなんでこんなに評価が暴落するんだと思いました。そして、私たちの会社の煙突が周辺では一番大きかったので週刊誌などにも載るようになったのです。ある朝会社に行くと、石坂産業反対、出て行けという人達がいました。反対運動が親御さんの会社にあったら子供たちはどんな気持ちになるでしょうか。私を自由気ままな生活をさせてくれたのは親ですし、その陰で私たちを育ててくれたのは社員たちです。それが出て行け反対となりました。

皆さんは産業廃棄物と聞いてどんなイメージをするでしょうか?
アンケートを取ると3K、怖いイメージが最初についてきますし、汚いものを見たくないというイメージもあります。

それだけ大きな横断幕がかかげられるようになった時、普段は社長と呼んでいますが社長室の中で二人で社員の目も無かったので「お父さん、なんで産業廃棄物の会社を作ったの?」と聞いてみました。

父は初めて会社を作った理由を打ち明けてくれました。「自分は中学校を卒業して高校にいけないくらい貧乏だった。タクシードライバーから始まり、トラックの運転手の仕事をしていたけれども、子どもも生まれて地に足がついた仕事がしたかったんだ。」そうしてダンプ1台を買って毎朝5時からお台場に埋め立てに行っていました。今ではきれいに整備されていますが、お台場も廃棄物の最終処分地として埋め立てられた土地です。当時、お台場の埋め立て地にはまだまだ使えるものがたくさん捨てられていました。それを見て、これからリサイクルしないといけない時代が来るだろうと産業廃棄物をリサイクルするようになったのです。

 

これ以上地域に必要とされない会社で永続するのは困難だと思い、「焼却をやめちゃえば?」と父に言いました。

石坂父に「どうしたいの?」と聞いたら「子どもたちに継いでもらいたいと思っていた。」という答えが返ってきました。ようやく親の思いがわかる年になったこともあり、「私に社長をやらせてくれない?」と言うと父は笑いました。「馬鹿言ってんじゃないよ。この業界がどんなのかわかってるのか?」業界の特徴は今はずいぶん変わりましたが、結局値段が高いか安いか、捨てられるのか捨てられないのかの世界だったのです。

営業事務をしていたので電話に出るとこうです。
「おたくゴミ屋でしょ?いくらで捨てられんの?たっかいな〜。じゃ行かねーや。」
ガチャ
値段が高いか安いか?捨てられるか?「ゴミ屋さん、女のお前じゃ話にならない。」と言われる毎日です。完全な男社会で職場の中で女性が圧倒的に少なかったので十年勤めても「女のお前じゃだめだ。男の社員に変われ」と言われました。

会社の煙突は石坂産業出て行けの人達に四六時中録画されるようになりました。寒い時期に煙突からあがる白いのは蒸気だと詳しい人であればわかってもらえるのですが、その人達からはダイオキシンと言われました。これ以上地域に必要とされない会社で永続するのは困難だと思い、「焼却をやめちゃえば?」と父に言いました。

日本は国土が狭いので廃棄物の容積を一番小さくできる方法として焼却が主流でした。調べてみるとわかりますが、廃棄物の焼却は戦後ずっと4億トンくらいで推移していてそのうち約10%が生活廃棄物と言われています。それらは私たちのような中間処理業者2万社に運ばれて原料化されます。

「私に1年間だけ社長をやらせて欲しい」という事で許しをもらい、お試し社長の1年間が始まりました。焼却を止めると売り上げが急激に下がるため、うちで受け入れたものをどこかに委託して焼却してもらう方法を考えました。社長としての最初の仕事は同業者に再処理してもらうように頼み込むことから始めました。「石坂産業です。知ってますよね?いま所沢は大変な事になっているので協力してもらえませんか?」と頼み込むと同業者は「お気の毒に。」と話をしてくれました。
そうして同業者に代わりに焼却を請けてもらえませんか?と日量50tの処理を再委託しました。

 

地域から不要な会社と言われ、周りに迷惑をかけるくらいなら変えていこうと製造業のように建屋の中にプラントを入れることにしました。

石坂:父にしてみたらやっとのことで15億円かけて建てた焼却炉を解体することになったのです。どうやって生き残っていくか必死でした。そこで、脱産廃屋を目指し、ゴミ屋って言われるのを止めようと考えました。

それまでこの業界ではまだ見てもいない廃棄物に先に値段をつけろと言われていました。家業から企業へ転換するため、持ってきてもらってから適正な処理価格をいただくようにし、産廃屋の領域を超えてみようとプラントも全天候型にしました。

同業者の中で露天で仕事をするところは多くあります。でも、地域から不要な会社と言われ、周りに迷惑をかけるくらいなら変えていこうと製造業のように建屋の中にプラントを入れることにしました。

建屋を建てる為には開発の許可が必要になります。初めて開発の事務所に「生き残りをかけて」という今思えば稚拙な手紙もつけて申請に行ったところ「産廃屋に出す許可なんてあるわけないじゃん。」と言われました。そこで、翌日は弁護士をつれて録音もできるように準備して行ったら「そんなことは言ってない。」と言われて申請を受け付けてもらえました。

地域の中で生き残るためには業務の拡大ではなく、環境保全でこの地域で存続できるようにすることだと思い、それが今の工場になっています。プラントの中にはショベルカーなど40台くらいの重機が入っています。「経営理念ってないの?」と父に聞いてみたら無かったので作って欲しいと頼みました。出来上がった経営理念はこれです。

『謙虚な心 前向きな姿勢  そして、努力と奉仕』

最初にこの経営理念を見たとき、なんとなく会社っぽくないなと思いました。でも、10年社長をやって、この言葉無くして今の私はないなと思っています。

 

建設系廃棄物には名前が入っていないので少しでも安くして、例えどこかに捨てられていたとしても犯人がわからないのです。

石坂:焼却を止めて次に何をメインにするか?不法投棄があることに着目してその中身を調べてみたところ建設系廃棄物が最も多いことがわかりました。じゃあ他の会社がやっていないことをしようと不適正な処理がされているものを事業の中心に据えることにしました。

建設系廃棄物の中でも土と瓦礫が混ざった物が不法投棄が一番多く、不法投棄の90%くらいを占めています。なぜ不法投棄されるのかというと、土と基礎には名前が書いていないので足がつかないのです。

生活系廃棄物にはまだまだ売れそうなものが多いけれどもちゃんと名前が入っています。以前は衣類から反物、ファーストフードで配られるおもちゃなどを焼却していました。それらにはブランドの名前が入っているからしっかりとした処理が求められます。一方、建設系廃棄物には名前が入っていないので少しでも安くして、例えどこかに捨てられていたとしても犯人がわからないのです。

建設系廃棄物を処理するためにプラントを全リニューアルすることになり、40億円の投資をしました。同業者には「建屋の中に入れて利益出るの?うちは高見の見物をさせてもらうよ。」と笑われました。同業者からは笑われ、地域の住民から新しいプラントを石坂サティアンと言われました。命がけの投資をしてこんな事を言われ、ショックでした。

なぜここまで必要じゃないと言われてしまうんだろう?と思いました。生活の中で生まれたもので、地域の皆さんの廃材であってもそれを知らずに反対運動をしているのです。

産廃処理をもっと世の中の人に見てもらおうと2億円かけて見学通路を付けました。化粧品や食料品会社は製品への安心、安全を消費者に見てもらい、買ってもらっています。廃棄物処理業者は見学が出来るようになっても興味をもってもらえず、オープンした時に見学に来たのは環境団体の石坂産業に反対している人達でした。

一通り見学をしてもらって最後に出た言葉は「たくさんの人がいるのね。見えないところで下に埋めてんのかと思った。」でした。屋根をつけて覆った室内で穴を掘って埋める。そんなことできるかなという発想だったのです。たくさんの人が関わっているという事は認めてもらえましたが「でも、あなたの会社の存在を許さないから」こうも言われ、まだまだ全然だめだと思いました。

 

反対する人には辞めてもらってそれまで55歳だった社員の平均年齢が35歳まで下がりました。

石坂:廃棄物を分離するために比重によって重いもの、軽いものに分けることになります。また、分離させる大きさとその為の技術はほぼイコールです。つまり、分離したものをさらに分離する為には次の分離装置が必要になるという事です。それらを動かすのは誰でしょう?人間です。結果的にたくさんの人が必要な産業構造になっています。

また、分離する機械も2mm、3mm単位の分離をするのですぐ目詰まりしてしまいます。目詰まりを起こした機械は期待通りの働きをしません。皆さんの家にある掃除機もそうですよね。つまり、この会社を生かすも殺すも人次第、人材教育していかないといけないと思うようになりました。

当時、環境省が環境元年と言っていてISO14001が全国的に流行っていました。また、うちから半製品を買ってくださるお客様がプラントの処理工程をチェックしているのに付き添った際、最後にISO14001未取得で-40点をくらいました。これを知ってISO14001は取らないといけないなと思ったのです。

ISO14001を取りたいと父親に言った時、「そんなバッチで飯食えんのか?」と言われました。でも、本質的なことを変えないといけないと父親には「バッチだけにしない。会社の経営と一体化させる。」と約束しました。

朝礼に出て会社を変えたい。みんなでISOを取ろうよと言ったらヘルメットを取って床にバッシーンと打ち付けて「やってらんねーよ」と言い残して3〜4人が出て行き、もう会社に来ませんでした。

私たち変わたいんです。と反対する人には辞めてもらってそれまで55歳だった社員の平均年齢が35歳まで下がりました。ISOもどうせなら環境だけでなく品質、労働安全品質も1年で取得しようと取組が始まりました。

 

朝から晩まで分別をしている社員になんとかやりがいを感じて欲しいと思いました。

石坂:どんなことをしたかというと、品質についてはいい商品をつくるだけが品質なのか?と考えました。うちの商品はJIS規格をとれるような品質ではありませんとコンサルに話したところ「社長、品質は商品だけじゃないんじゃない?」と言われ、挨拶と3Sを取り込みました。
それまで朝、タイムカードを打っても挨拶できる社員はほとんどいませんでした。
「ちっす」
それじゃ変らないということで挨拶作戦を始め、「おはようございます」の練習からです。きちんとした挨拶をしたくない社員には辞めろと言って、言わない社員には腕をつかんでやらせるようにしました。

他にも工場にはプレハブの休憩所があったのですが、バケツに水をはって灰皿にしていたりしました。ここからの3Sがきつく、ドアを開けたらヌードポスターがバーンと貼ってあったり。それを剥がして歩く毎日です。週刊漫画もたくさんあって休憩所を6か所も廻ってられないので1か所に集約しました。
それまでは夕方にいくと5時に勝手に仕事を上がって煙草を吸っていたのです。

ブーイングの嵐でしたが、徐々に繰り返しやりながら自分は何をしに来てんの?あさ8時に出勤して19時まで半日以上会社にいて家には寝に帰るだけ。そして休みは日曜日だけです。何のための人生なんだろう?社員のみんなもそうなんだよね?楽しく働きたいよねと思うようになりました。

父親は圧倒的な経営者で現場で注意していくタイプの人でした。
五感経営でモーターもさわってみろ、とにかく現場に行けと。指示されていく社員は言われたことをやるだけになっていたのです。

みんなで考えようと言うようになってから2ちゃんに書き込みされました。
「最近社長は自分で考えられないから俺たちに考えろって」

朝から晩まで分別をしている社員になんとかやりがいを感じて欲しいと思いました。毎日巡回するようになってだいたい特性が出るようになりました。社員も社長が巡回に来る時間がわかってきて、私の姿が見えると目に見えて社員の動きが変わるのが見えたのがショックでした。目に見えて変わるという事は私がいない間はできていないという事がわかるからです。

 

実際に工程を見て「大変ね。最後は人の手なのね。頑張ってね。」と声をいただくようになって社員が見られることに意識を向け始め、どんどん変ってきました。

石坂:工場見学通路で見ていただくようになり、最初の年は500名くらいのお客様に来ていただきました。中には実際に工程を見て「大変ね。最後は人の手なのね。頑張ってね。」と声をいただくようになって社員が見られることに意識を向け始め、どんどん変ってきました。

ちょうどトヨタが見える化を叫んでいた頃で石坂産業でも見せる化をしよう、どんどん見てもらっていいようにしようという流れになりました。

最初の5年くらいは自ら社員の中に入って自ら没収の繰り返しでした。でも、お客さんが来るようになって、お客さんが来るから慌てて綺麗にするよりもいつもきれいにしていた方が楽だという事に社員が気づきました。

また、ISOで情報セキュリティを取得しました。今までは工場の全てが父親の頭にありましたが、見れる物がなかったのです。この機械、先月も壊れなかった?何年前に買ったの?と聞いても誰も答えることができません。

会社の財産の履歴をデータマイニングしようと1億円の投資を行いました。この時も「コンピュータに向かってて飯食えんの?」と父親に言われました。一つのプラントにだいたい100本のコンベアがあり、この機械はいつ買ったもの?と聞いても私が社長になって昔からいた社員の多くは辞めてしまったので過去を知る人がいません。そこで、全ての機械に番号をつけて管理するようにしました。

機械が止まった原因を都度入力していくと5年もするとデータが蓄積されて現場に「こんなに止まってるの知ってた?一生懸命働いてるって言っても月のうち1週間は止まってるじゃない。なんとかしなさいよ。」と言えるようになりました。

データで提示されることで社員の意識も変わりました。社長に何か言われたくないので自分たちで工夫するようになり、最近では「社長は目的だけ設定してよ。」になってきました。 

うちではプラントは6つあります。他社には一つのプラントでやっているところもありますが全て受け入れるために6つのプラントを持ち、平均95%のリサイクル率になっています。コンクリートは粉砕して100%リサイクル、柱材はチップに、混合廃棄物は煉瓦のようなものになりますが社員には製造メーカーという感覚がありません。

そこで、このチップがどこいくか知ってる?キリンビールの工場に行って段ボールになるんだよ。それを子どもに伝えてやってと言うとなんだか社員の気持ちが変るのがわかりました。工場の中だけ見てると自分たちの作った製品がどう世の中で使われるか見えません。ISOを通じてそういうことを伝えるようにしました。

 

自分の家の近くに産廃業者ができると反対されるような迷惑産業のままでは、将来働くであろう未来の経営者が誇りをもって働けるでしょうか?

石坂:全天候型プラントにすると中でなにが起きるか?というと排ガスがこもり温度が上昇します。そこで大型の集塵機を導入し、1分間に13,000立米の集塵をするようにしました。うちのプラントの電気代の40%はこの集塵機のためのものです。

同業者はこれを聞いてやりますか?別にいらない設備です。社員満足を上げるために有給休暇を取ったり福利厚生を整えたりすることの全てにお金がかかります。企業がそれを出すということは経費になるのです。でも、未来への投資になると思って取り組んでいます。

では、どこからそのお金をもらうか?というと廃棄物の処理単価からもらわないとできません。そうすると価格が勝負であってはならない業界にならないといけません。そういう啓蒙ができるフィールドをこれまで誰も持っていませんでした。国内に2万社もあるのにです。6大学の学生に環境ビジネスに興味があると呼ばれて話に行きましたが「産廃ってしってますか?」と聞くと「知らない。」大学生は聞いたこともないのです。

自分の家の近くに産廃業者ができると反対されるような迷惑産業のままでは、将来働くであろう未来の経営者が誇りをもって働けるでしょうか?見学通路を作って世の中にはこういう会社も必要なんだという認識をみなさんに育ててもらいたいと願っています。

 

今では敷地面積の8割が緑地で2割が工場です。工場法では最低8割の工場に2割の緑地を義務付けていますので逆の比率です。

石坂:わたしたちの業界も大きく変わっていくと思います。どんどん人に来てもらうように石坂サティアンと呼ばれたことがきっかけで隣に小さな公園をつくり、実際に環境を汚染するかどうかホタルを飼ってモニタリングしました。

そうこうするうちに徐々に垂れ流しはしてないと地域の様子が変わってきました。隣接する森を地元の人に公開したら喜んでくれて、他の森もこうしてよとヒントをいただきました。私たちの会社で森を守る事もできるのかなと考えたのです。当時、国外クレジットというのが叫ばれていて工場で排出したCO2を海外の植林事業とオフセットできますよとお声がけいただいていましたが、遠い海外で植林しているのと自分のやっている事がつながらず、他でオフセットしているのを見てもしっくりきていませんでした。

地域に還元していかないといけないという事で森を守る里山再生プロジェクトをたちあげました。世界農業遺産に登録を目指している武蔵野台地は江戸時代に開墾が始まりましたが水がないので田んぼではなく畑での開梱でした。水が乏しい地域なので父親にも「処理をするとき湿式処理には絶対に手を出すなよ」と言われました。

昔の人は開拓地の一部に森を作り、そこに広葉樹を植樹することで水脈を地下20mくらいから15mくらいまで上げて井戸を掘って田畑を作っていました、そうしてできた雑木林が今も残っています。更に広葉樹の落ち葉は堆肥にして循環農業をしていたのです。

今は農業をする人が減ってきたのと落ち葉で堆肥を作らなくなったため、森に手が入らなくなり ジャングル化して針葉樹がどんどんはえてくるようになりました。鬱蒼とした森には不法投棄が起こります。そうして、一般の人がテレビや電子レンジなどを捨てていったのを石坂産業ではボランティアで回収しています。

捨てられた生活家電などを回収しながらなんでこんなふうになるんだろうと考え、森が暗いから捨てていくんだと里山を再生して公園にするようにしました。私達自身の手で里山の再生保全に取り組んでいるので、無料でやってくれるならと周りの地主さん達も森の管理を委託して下さるようになり、今では敷地面積の8割が緑地で2割が工場です。工場法では最低8割の工場に2割の緑地を義務付けていますので逆の比率です。

 

物を作っていく過程で廃棄物が発生することを忘れてはいけません。誰がどこでどのようにして作り、廃棄しているのか意識して欲しいと思います。

石坂:それでも環境団体は適当に公園作ってそこに捨ててるんじゃ?という疑いを持っていたのでまだ信用してもらえないんだとJHEPという生物多様性の認証を取得しました。
世の中にある大きな問題のうち地球温暖化と廃棄物問題に取り組む以上、生物多様性は無視できない要素です。JHEPの審査は1年間に及び春夏秋冬それぞれの季節で審査を受けて費用も500万円くらいかかります。それでも地元の人が安心してくれるならと認証取得へ向けて取り組んだ結果、最高位であるトリプルA評価をいただきました。これは森ビルと石坂産業だけだったのです。

50年先の森づくりという事で春夏秋冬楽しめるよう自社の中をテーマパーク化しました。せっかくここまでやったのでもっと多くの人に見てもらいたいと地元の小中学生の環境教育に役立ててもらうようにしました。ユネスコ会議でこれから世界に必要な教育として体験できる環境教育が求められていますが、5感で体験できるようにし、多くの子どもの環境教育に使ってもらうようにしています。

今では年間3千名くらいに来ていただけるようになりました。昨年は中南米・カリブ10カ国の大使が一緒になって視察に来られました。「どうしてもインフラ整備に目が向いてしまう。廃棄物の事はあまり考えないんだよね。」とぽつりと話されていました。

物を作っていく過程で廃棄物が発生することを忘れてはいけません。誰がどこでどのようにして作り、廃棄しているのか意識して欲しいと思います。 

 

息子は安倍首相と私のツーショットに「すげー!俺もそうなれるの?」と言っていました。将来に希望の持てる業界にしていきたいと思います。

石坂:経済産業省のおもてなし経営選でもお客様に石坂さんのやってることっておもてなしだよねと言われたので応募しました。春夏秋冬を多くの人に楽しんでもらい、季節感を感じてもらいたいと思います。なかなか日々の中で季節感を感じることも少ないと思いますが、トラックの運転手さんがススキの穂が出たのを見てもうこんな季節か・・・と季節感を感じるようなこともありました。

昨年暮れには安倍首相の懇談会にも呼ばれ、「女性で大変でしょう」とお声がけいただき、「世界から訪れる人を増やし、中南米の大使がきづいてなかった産業廃棄物処理の大切さをこれからもっと広い範囲の人に見てもらいたい。」と話しました。

沖縄から北海道までほぼ総なめになるくらい見学に来て下さるようになりましたが、従業員は125名中 80名が男性です。口コミで面白い産廃屋があると話題になるようになりました。注目して下さると同業者が不思議に思って見に来られるようになります。昔、名古屋の同業者にプラントを見せたくないと断られたことがあります。営業地域的にもライバルではないにも関わらずです。うちではいいところがあったら盗んでいって欲しいと言っています。

視察に来て帰った後に日立建機に電動重機の注文が入ったり、負けじと投資をするということが業界内でも起きています。そうすると廃棄物の処理単価が上がるようになりますが、値段で叩かれる業界であり続けてはいけなく、適正な価格で社員満足度をあげないと働く人が将来にわたって増えていきません。

業界の目線を変えたいと考えています。同業者にも最終処分場を建設するために山を買っても地元からの反対運動で10年間何もできないというところもあります。今ある埋め立て処分場もあと14年でキャパシティがなくなります。どういう形がいいのか考え、適正な処理ができる会社に育ててもらえたらと思います。

石坂産業は私が子供の頃石坂組という名前で学校で私は「組長の娘」と呼ばれていました。父の会社は怖いものと思っていましたが、息子は安倍首相と私のツーショットに「すげー!俺もそうなれるの?」と言っていました。将来に希望の持てる業界にしていきたいと思います。

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