いい投資探検日誌(from 八女)

しあわせをふやす いいお金の使い方を考えています。2017年に所沢から八女に移住しました。

西粟倉村の今までの50年 小松英夫氏、延東義太氏、牧大介氏【西粟倉ホタルの森フェスレポート】

西粟倉ホタルの森フェス2014で行われたリレートークのレポートです。バスが現地に到着した時には既にトークが始まっていたので途中からの内容になります。

第一部では今までの50年と題してこれまで西粟倉の森を手入れしてきた小松さん、延東さんに西粟倉・森の学校の牧さんがお話を聞ききました。

田んぼ+牛+採草地という風景から耕耘機の登場によって採草地が山林に変わっていく流れなどはなかなか聞く機会がないので面白かったです。

森に手を入れたくても道を通させてくれない人がいると滞ってしまうというのは小規模山主が多い中山間地域で共通の問題なんでしょうね。

リレートーク 〜今までの50年、これからの50年〜
 今までの50年の部

 日時:2014年7月20日(日)10:00〜11:00
 場所:大茅スキー場(岡山県西粟倉村)
 出演:小松 英夫
    延東 義太
    牧 大介氏 

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これは生活のためにだけれども、一遍に切ったらなくなってしまうので、お金が必要になった時に伐りなさい

(途中から聞いたので、いきなり話の途中からですが・・・)

牧:中一からというと12~13歳くらいから山にいて

延東:日曜日といったら大抵山にいました。一番言われたのが、これは生活のためにだけれども、一遍に切ったらなくなってしまうので、お金が必要になった時に伐りなさいと。

牧:定期預金に近いような。

延東:今の貯金のようなものです。

牧:山に手を入れたら貯金になると。

延東:山の考え方はそれと

牧:長期的に財産を殖やしていくという気持ちで山に向き合っていけと。小松先生の家でもそういう感じだったんでしょうか?

小松:特別な災害などに備えるとそういう感じで。

牧:100年の森構想を立ち上げた前村長の道上さんがおじいちゃんに言われたのは何かあった時に山が助けてくれる。日常的な収入というよりも何かあった時に山が助けてくれる。

この村の山主さん共通の考え方でしょうか?

小松:そうだと思います。たくさん山をもっておられる方は山の収入で生活をというのを考えるでしょうが。私らのような規模では貯金のような考え方になると思います。

下草刈りが一番大変でした。10年もすれば大丈夫になります

牧:中一の頃から山に入られて、その時お兄さんは亡くなられていた?

延東:そうです

牧:本当はお兄さんが延東家を継ぐはずだった?

延東:僕は普通だったらここにいなくて街にいたと思いますが、たまたま残ったので元気にここにいられたんだと思います。

牧:お兄さんが急に亡くなられてしまったんですか?

延東:僕が覚えているのはお腹が痛いといって家に帰ってきて、おかしいなと病院に行こうとタクシーで病院に行ったら胃潰瘍で早く手術しないとと言われ、大きな病院を紹介してもらって手術してもらいましたが、麻酔が切れないまま亡くなりました。

牧:中学一年でお兄さんが亡くなられて家を継げと。

延東:そう言われたら致し方ないと。その時からおじいさんに牛を使って田んぼを耕したりするのを教わりました。牛は綱一本で動いてくれて向こうまで行ったらくるっと向きを変えて自分の道を戻ってくると。たいしたもんだなと関心していました。

牧:牛も山も先祖代々のものなのでそれは受け継がないといけないというそういう感覚が普通にあった中で、日曜日に遊びたいこともあったと思いますが、いまのうちに教えてもらわないといけないと甚太郎じいさんから教えてもらったと。

延東:苗作りとか檜の苗の作り方とか、檜は実からまいたら5年くらいかかるので道ばたに生えていたらそれを大事に持って帰って、大きくしたら3年で植えられるとそういったことも教わったりしました。アカザシの苗をとってきて植えたり。いろんなことを。

牧:小松先生、植林してからもいろいろ手をいれないといけないと思いますがこの時期はどんな仕事があるんでしょうか?

小松:山の木を育てるにはまずは下草を刈って草に覆われている苗に日が当たるようにしないといけません。

牧:まだ苗が小さいから草の方が苗より高くなってしまう。

小松:これから先がいちばん忙しくて大変な時期でした。

牧:昔は田植えは6月頃でしょうか?

小松:夏至の頃にはだいたい田植えは終わっていました。

牧:田植えが終わったらたんぼも山も草がどんどんと・・・

小松:自力でできないところはお金を払ってお願いしていました。下草刈りが一番大変でした。10年もすれば大丈夫になります。

牧:でも10年くらい毎年手入れがいるんですね。

小松:状態によって違いますけど場所によっては10年くらい。

牧:大変だからもういいかとか途中で思わなかったんですか?

小松:そりゃー、そんな事は思ってましたけどね。

牧:将来のためにはここで頑張らないとと

小松:弟達を叱咤激励しながらやっていました

牧:義太さんも今の時期は下刈りでしたか?

延東:植えた年から4年くらいは年に2回くらいやっていました。中学生からおじいちゃんとお袋と三人で。

牧:高校生になられたくらいでおじいさんも亡くなられて。

 

三年生になった時にお袋に黙って農機具屋さんに行って、耕耘機を買ったんです

延東:大原高校に通っていたころでした。定時制の4年生で。面白い話でうちには牛がおったでしょ。大原高校に行ったら耕耘機いうものがあったんですよ。鉄の車輪の耕耘機が。これは面白い機械だな~と。

一年生の時にいつ先生は使わせてくれるんだろうと関心をもっていたんです。二年生になって耕耘機を使わせてもらってなんとまあこりゃあ便利のええ機械だと思って、一年間は牛でやっていましたが、三年生になった時にお袋に黙って農機具屋さんに行って、耕耘機を買ったんです。

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牧:勝手に買ったんですか?

延東:そう、二十何万円したんですけど

牧:それ、怒られますよね?

延東:怒られました。どうすんだ!と。この牛を耕耘機に変えてもらったんじゃと。牛はいくらで売れるかな~ということでそれからお袋と大げんかしたんですけれども、機械でやってみるとやってみせたら感心して「なんとまあいい機械じゃなと」

牧:じゃ、褒められた?

延東:褒められました。牛は一年間は飼育はしたんですが耕耘機の方がいいなということで肉屋さんに出して。そしたら近所の人から耕耘機がひっぱりだこで、うちのもおこしてくれと。自分のところをおこす間もないくらいに。

牧:牛より良かったですか?

延東:牛ですること3回くらいのことを一遍に済ませます。

牧:牛みたいに毎日えさをやらなくてもいい

延東:ええ。それに文句も言わんし、牛だったら苦しくなったら動かなくなります。転んだら絶対に動きませんから。青竹で叩こうがうんともいいません。そうしたらほっておくしかない。

牧:それに比べれば耕耘機は言うことを聞く。

延東:あれはええもんだったな。

牧:ちょうどそのくらいに牛と山と田んぼがセットだった時代から耕耘機に切り替わった時代、義太さんは村でもはしりだった。

延東:はしりだった。

牧:小松先生のところは耕耘機はいつぐらいに入れられました?

小松:ちょっと覚えてないですね。

牧:牛がいらなくなって、やっぱり東京オリンピックの前後くらいからでしょうか?

小松:そうですね。昭和30年代にオートバイや耕耘機が入ってきたのは。

 

戦後の採草地の植林とその前から続いている植林とで気合いの入り方が違うのかな

牧:牛のえさをとるための採草地っていうのは田んぼの何倍もの場所をとっていたと思います。ここも元々は採草地で牛のえさをとる山だったんです。それだけ広い土地がないといけなかった。牛が耕耘機に切り替わってこの採草地がいらなくなっていくわけですね。

義太さんの話を聞くとそんなに言うことを聞くいい機械だったら耕耘機にいかざるをえないですよね。それでいらなくなった採草地、採草地は各集落の入り会いだった・・・

小松:入り会いでした。

牧:共有地で村の土地だけれども地区ごとに管理を。

それがいらなくなってこの辺りも今は見渡す限り木が植わってますが、もともと採草地だった場所が牛が必要なくなって採草地として使わなくなり、植林をしてというのが日本中でそういったことがあったわけですが、その当時の雰囲気として植えないといけないという熱気はどういったものだったんでしょうか?

小松:みんな山が欲しかった時期。ただ、山が手に入ってもお金が手に入るのは30年先ですからね。そのことは抜きにしても次々と。

牧:苦労しても山を持っていた家が裕福だったというかそれだけお金にできている状況を見て、周りも山を持ちたいと。すぐにはお金にならなくても将来お金になるので山を持ちたいという気持ちが当時が強かったんでしょうか。

小松:2~3日前にも放送がありましたが、年金収入+山林収入を考えていました。ところがそうはいかなかった。

牧:小松家も延東家も採草地の払い下げで植林という場所が結構あったんですか?

小松:私の場合は2カ所ありまして一カ所は採草地でした。一カ所はそのままで。

牧:延東家の場合は植林されたのは代々植林されていたのか、いわゆる戦後の採草地からの植林なんでしょうか?

延東:採草地からのところもありますが、ほとんどは昔からのところです。

牧:私もこの村でいろいろ山主さんとお話させてもらって、採草地だったところの植林というのはそんなにいい山に仕上がってないように見えます。他の地域と比較するとしっかり管理されている割合は多いのですが、戦後の採草地の植林とその前から続いている植林とで気合いの入り方が違うのかなという気もするんですけど。

延東:採草地を植林したときはみんな楽しみにしてたんです。ところが木材の需要が外国産の木材に押されたわけです。ロシアからまっすぐな木が入ってくるでしょ。国産はちょっと曲がっててもすぐ切らないといけないような木が多くてみるみる値段が下がったんです。

値が下がると手を入れてもこらどうしようもないわという考えが強かったんだと思います。その当時は僕も枝打ちをしていて40年くらい前までですか。手間がいるのが敬遠された原因だと思います。単価が安いということと。

牧:本当はお金も手間もかけていれば将来お金になると下刈りくらいまでは頑張っていたけれども30年、40年となってくるとこれ以上手をかけてもと。

延東:もう合わないと。

牧:つらい割には報われないという捉えられ方になっていった。

延東:そういう山が多かったという事ですね。

 

地域によっては誰が所有者なのかわからないところもありますが、そういう山になってしまうよりは、大事にしてきたものは誰かに大事にして欲しい

牧:義太さんの山も90年くらいの山で、ちょうと私たちが座っている椅子が木工房ようびの大島さんが作った甚太郎ひのき。

延東:だろうか?

牧:森の学校が買ったやつなんですけど、指定をしたのでおそらく。

廃藩置県の年に生まれた延東甚太郎さんが植えられた檜だと思います。お二人は先祖代々うけついだ財産は守っていかないといけないのは当然だと思って引き継いでこられたわけですが、息子さんたちはこれからも受け継いでいただけるか?先祖代々受け継いできた苦労はどこにいくのか?そのあたりのお考えを。

小松:子どもは守ってくれると期待しておるんですが、ちょっと自信がない。

牧:小松先生のお子さんは村におられる。

小松:長男は身体の具合が悪いのでおそらく山仕事や農業はできないと思います。次男は帰ってくるのかどうか。

牧:自分の子どもに継がせたいのが第一希望?

小松:それが第一希望。

牧:ただ、現実なかなか難しそうという事で第二希望は想いを受け継いでくれる人なら血がつながってなくても。

小松:まあ、養子になってくれたらね。それは誰にも話してませんけど、守って育ててきたので受け継ぎたいです。

牧:地域によっては誰が所有者なのかわからないところもありますが、そういう山になってしまうよりは、大事にしてきたものは誰かに大事にして欲しい。

小松:そうですね。

牧:延東さんはどうですか?お子さんは学校の先生をされていて、家の前に道を挟んで住んでおられてお孫さんもいてとても幸せそうな素敵なファミリーに見えますが。

延東:見えますか?孫が三人いて上は大学生です。女の子ですからなかなか帰ってきません。

真ん中は高校正で大原の駅まで送って行くときにぼちぼちおじいさんの仕事を手伝ってみないか?と聞いてみたら「さあ、僕体力が続くだろうか」と。それなりのことをしたらいいんだと言ったけれども「そうだろうかと」。

息子もそれなりの年になりますし、誰でもいいかと。森の学校が世話をしてくれたら一番いいんだけどなあという気持ちもないわけではないです。

牧:そういっていただけるのは・・・その話はあとでまた。でも現実どうしていくのかと。村全体で6000haあって人工林が村全体で4000ha。誰がどう受け継いでいくのか?

今日は役場の山林担当の小倉さんもいらしてますが。村の方で100年の森事業ということで所有者さんが自力で管理できないんだったら一旦役場が預かって森林組合にお願いして間伐することで手の入っていなかった山に手が入るようにはなってきました。

 

木を育てる経験の無い人とは意識の差がありますね

牧:やらないよりはやれることを役場も森林組合もやっていて我々も出てくる木は経済的にまわるようにしようとしているんですが、あえて辛口のコメントを森の想いをこめた人からという事で、今の西粟倉の森づくりについていっぱい人のいる中でなかなか本音では言いにくいとは思いますが、もっとこうして欲しいというものがあれば。

それもこういった機会に聞いておくのも大事だと思います。

小松:西粟倉の森には我々のように手を入れてきた人とそうではなくて、かなり大きくなってから山を手に入れた方がいます。そういう木を育てる経験の無い人とは意識の差がありますね。

一番問題なのは山に木があっても最終的には切り出すことになり、そのためにはどうしても道がなければできんわけです。でも、思い切った道ができないのが一番の問題です。山主の承諾が得られなければ道は作れません。ほんのわずかな土地でも通すことができないのですが、うちの土地は通さんとかそういう人が一人でもいると道が作れないのです。

牧:山とか道に対する思いは山主さんの間でも一枚岩ではないわけですね。

小松:西粟倉村外の方で山の管理をあまり理解されていない人がなかなか協力してもらえないでいます。あの人が承諾してくれればという土地もあるのですが。

牧:村におられる方でも考え方は様々なのでしょうか?

小松:私の周りでそういう人はいませんが、やっぱり村外の人が。それが一番100年の森構想に障害だと思いますね。

牧:小松先生は現実的に管理できないなら役場に預ける事に対して仕方がないというかポジティブに捉えられてはいて、でもやっぱりまとまって管理してでも道をつけることになかなか理解がない、森の整備には道が必要なのに「道を入れたら山が減るがな」という方も結構おられる・・・。

小松:それが一番困りますね。それがなかったら100年の森ももっと進むと思います。ほんのわずかなんですけどね。せっかく手に入れた山だからと、それを言われるとどうにもならない。

牧:自分の財産であって役場にとっては村全体の森がすべて大事な財産だと思っているのですが、そこから経済を再構築しようとしていますが、自分の財産に人の手をいれさせたくないと

小松:枝打ちもしないとやがていい木にならないと。その木を出さないといい木にならないと私はわかるのですが、どうもその山主さんはそのあたりが見えていない。

牧:延東さんはいかがですか?

延東:100年の森構想で役場が各地区に説明にまわってこられました。その時に僕は「そら最高にいいことだ」と言ったら、「そんなこと言って、土地は減って木は切られて儲けが減るぞ」と言われましたので「おめえはなんちゅう浅い考えだ」と言いました。

僕の山に行ってみんさいと。上下50m間隔で道がついてます。軽トラがずっと走りますよ。今は軽トラも四輪駆動なので相当な坂道でも登ります。だからチェーンソーや刈り払い機を積んでも道は作れますよと。

道は作ってもらえて、手入れもしてもらえて、それほど結構なことはないと言ったんですが、「土地が減るから嫌じゃ」と。「馬鹿なことをいいさんな」とあんたはもう少し理解のある人だと思ってたと。

今、小松さんが話してましたが、村外の人の土地に行ったら道が途切れてしまいます。つけてもらいたいけど、そこから先に行かないんです。

 

私たちの時は山仕事で生計をたてる人が多かったです。山に頼る生活を送っていました。

牧:今日はこれまでの50年、これからの50年ということで夕方までずっと話をするんですが、これまでの50年というのはちゃんと村にいる方々に森への想いが受け継がれている小松先生や延東さんのような方は例外的な方なのか、全体的にはそんなに多くなくて限られているのかその辺りはどうなんでしょうか?

延東:ある程度年をとって亡くなられた方が多いでしょう。経験をつんできていないからわからないんです。

牧:義太さんはお兄さんが早くに亡くなられて中一から山に入っていたから苦労をされていますが、そういう意味では例外的に早い時期から海水浴にも行かずに下草刈りをしていたと。

延東:青年団というのがあって海水浴に行こうと誘われたけれども下刈りがあるから行きたくないと言ったら、みんなで手伝ってくれることになって海水浴に行った経験もあります。

牧:海水浴は行きたかったことは行きたかった?

延東:そりゃたまにはどんちゃん騒ぎしてみたい

牧:毎日毎日下刈りしてたらたまには海に行ってどんちゃん騒ぎしたくなりますよね。

延東:今までいろいろ仕事をしてきました。役場の臨時職員も。一番やったのは西粟倉に集団赤痢が流行ったとき。その時にかり出しがあって白衣を着て西粟倉中走り回っておけと言われました。村民の検便を集めてまわったり。

それが収まったら村長が今度は北海道に行ってこいと。村長、なんちゅうことを言うんだと言ったら旅費も何も県の方から出るからということで。倉敷に砂糖工場ができたので岡山県では砂糖大根を作れという話になって北海道に視察に県から20人くらい行きました。他にも運送会社で働いたりもしました。

牧:郵便局で出たボーナスは大方山につぎ込んだという噂を聞きました。

延東:そうそう。人を頼んだりしたので。奥さんが「あんた、ボーナス出たんちゃうん?」と言うので「出たよ」と。「どこいったん?」「もう山に眠ってしもうたわい」「まぁ~」と。

牧:小松先生はもう少し上の年代になりますが、もっと山に熱心な方が多かったでしょうか?

小松:私たちの時は山仕事で生計をたてる人が多かったです。山に頼る生活を送っていました。

牧:村の中にも外にも山主さんがおられて、想いを持って接してこられた方の話は聞いてちゃんと村の森を元気にしていくということをしないと、今元気なうちに受け継いでいくことが大事なのかなと。

 

西粟倉の森に関わっていく方に一言これだけは言っておきたい

牧:村で生まれ育った方、移住してこられた方、村の木を使って東京でたくさんオフィスを作っている人などこれから西粟倉の森に関わっていく方に一言これだけは言っておきたいというものがあれば。

小松:木は自分ひとりで大きくなったんではありません。50年なり人の手を加えています。植えただけでそのままにしたんでは育たないので、大勢の人の汗があって育っている。そういうことを意識して欲しいと思います。

延東:西粟倉にもこういう苦労をして育った木があるんだよという事を知って欲しい。そして西粟倉の木を特別にご指名願いたい。そういう気持ちをもっています。

おじいさんから預かった木なので。木は1年で1才増えるので1万本あれば1万才増えるんだと、そのつもりで育てなさいとそんな風に教えられました。(75石=1才)

牧:真夏の炎天下に74歳、87歳のお二人をここに引き出していいんだろうか?せめて午前中にしようとこれまでの50年について振り返って、午後は藻谷先生の話を聞いていただこうと。

藻谷さんからは大事にしないといけないけれども引き継いで元気にやっていけるのといけない地域について現場をみている立場からのお話をしていただき、さらにそれを受けてどういう風にこの村を生き残っていくのか話し合っていきたいと思います。

今日は1時間という短い時間でしたがありがとうございました。

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